2026年3月、辺野古の海で声が途切れた。沖縄県名護市辺野古沖で基地建設に反対する抗議活動中に船舶2隻が転覆し、高校生1名と牧師1名が亡くなった。彼らは暴力を振るったわけではない。海に出て、声を上げようとしていただけだった。この事故の報道を追いながら、私はふと考え込んでしまった。日本の左派運動が辿ってきた道のりのことだ。理想を掲げて声を上げた人々の歴史が、いつの間にか暴力と内部崩壊の歴史へと変容し、やがて市民運動として再生し、そして今また辺野古の海で新たな犠牲者を出している。この連なりの中に、何が見えるのかを書いておきたい。
1960年、日本は文字通り揺れていた。安保闘争と呼ばれるこの運動は、日米安全保障条約の改定に反対して全国で爆発的に広がった。560万人がストライキに参加したとされる。日本史上最大規模の政治運動だった。東京の国会議事堂の周囲には連日数十万人が押し寄せ、条約改定の阻止を訴えた。この運動の背景にあったのは、敗戦からわずか15年という時間のなかで再び軍事的な同盟関係に深く組み込まれることへの根源的な恐れだった。戦争で家族を失った世代がまだ現役で働いていた時代であり、「もう二度と戦争に巻き込まれたくない」という感情は、イデオロギー以前の生存本能に近いものだったと私は考えている。
この運動は一人の若い女性の死で象徴される。1960年6月15日、東京大学文学部の学生だった樺美智子が、国会構内でのデモ中に命を落とした。警察との衝突のなかでの圧死だった。22歳。彼女の死は社会に衝撃を与え、運動の象徴として語り継がれることになる。岸信介首相は条約の自然承認後に辞任した。この時点では、左派運動は市民社会の広い支持を背景に持っていた。大学教授も、作家も、労働組合員も、主婦も、学生も、それぞれの立場から声を上げていた。暴力は存在したが、運動の主体は暴力ではなかった。
1968年になると、風景は一変する。ベトナム戦争への反対、大学運営の民主化、社会変革への渇望を掲げた学生運動が全国に広がり、全国127の大学が紛争状態に入った。全共闘と呼ばれる組織が各大学で結成され、バリケード封鎖やストライキが日常になった。1969年1月18日から19日にかけて、東京大学安田講堂に立てこもった全共闘の学生に対して機動隊8,500人が出動し、36時間に及ぶ攻防の末に強制排除が行われた。逮捕者は767人に上った。テレビカメラが映し出した安田講堂の攻防戦は、日本社会に強烈な印象を残した。学生たちは理想を語っていた。帝国主義の打倒、大学自治の民主化、ベトナム反戦。しかしその理想の表現手段は、すでに暴力と不可分になりつつあった。
ここから先の展開は、急坂を転がるように速い。1970年3月31日、共産主義者同盟赤軍派のメンバー9人が日本航空351便をハイジャックし、北朝鮮へ亡命した。乗客122人は後に解放されたが、生存メンバーの一部が北朝鮮による日本人拉致事件に関与したとされている。飛行機を奪って国境を越えるという行為は、もはや市民運動の範疇にはなかった。主張の内容がどうであれ、手段が主張を食い尽くし始めていた。私がこの時代の資料を読むとき、繰り返し感じるのは、理想と暴力のあいだの距離が月単位で縮まっていく速度だ。
そして決定的な転換点が訪れる。山岳ベース事件である。赤軍派と京浜安保共闘が統合して連合赤軍を結成し、群馬県と長野県の山中に設けたアジトで「総括」と称する自己批判セッションを行った。その「総括」は言葉による反省ではなかった。「共産主義化」の名のもとに、同志に対して暴行が加えられ、12人が殺害された。凍死させられた者、絞殺された者、殴打の末に死亡した者。殺したのは敵ではない。同じ理想を掲げ、同じ山小屋で眠り、同じ革命を夢見た仲間である。私はこの事件の詳細を読むたびに、奥歯に力が入る。理想を語る言葉が、その言葉を語る人間の命を奪う道具に変わる瞬間。それは暴力の目的化としか言いようがない。声を上げるために集まった人々の声が、同じ集団の内部で永久に奪われた。
衝撃が冷めぬまま、あさま山荘事件が続く。1972年2月19日、山岳ベース事件から逃走した連合赤軍メンバー5人が軽井沢の山荘に管理人の妻を人質にして立てこもった。10日間の籠城の末、機動隊が突入して全員を逮捕した。人質は無事に救出されたが、機動隊員2人と民間人1人が死亡し、27人が負傷した。NHKの生中継は視聴率89.7%を記録した。日本のテレビ史上、最も多くの人が同時に見つめた画面だった。茶の間のテレビに映し出されたのは、かつて理想を語っていた若者たちが銃を構えて人質を取り、機動隊と対峙する姿だった。この映像が日本社会に与えた影響は計り知れない。左派運動に対する世論の支持は、この10日間で決定的に失われた。
暴力はさらに国境を越えた。1972年5月30日、日本赤軍のメンバー3人がイスラエルのロッド空港(現ベン・グリオン空港)で自動小銃を乱射した。パレスチナ解放人民戦線との共同作戦だった。死者26人。その大半はプエルトリコからの巡礼者だった。負傷者は約80人に上った。日本の左翼過激派が中東の空港で無差別に人を殺す。この事実は、日本の左派運動が出発点からどれほど遠くへ来てしまったかを残酷に示していた。1974年8月30日には、東アジア反日武装戦線が東京丸の内の三菱重工ビルを爆破し、8人が死亡、376人が負傷した。日本のアジアへの経済侵略に対する「報復」を名目としていたが、殺傷されたのは昼休みにビルの周辺を歩いていた一般市民だった。
外の敵と戦えなくなった組織は、内側を食い始める。革マル派と中核派の内ゲバは、1960年代後半から1990年代まで30年以上にわたって続いた。同じマルクス主義を掲げる組織同士が、路上で、大学構内で、互いの活動家を鉄パイプや金属バットで襲撃し続けた。累計で100人以上が死亡したとされる。1975年には革マル派が中核派の本多延嘉書記長を暗殺し、中核派が報復を宣言するという、終わりの見えない暴力の連鎖が始まった。ここにはもう、安保条約への反対も、ベトナム反戦も、大学自治の理想もなかった。あったのは組織の存続と、敵対する組織への憎悪だけだった。一般市民が新左翼に対する信頼を完全に失ったのは、このような内部抗争が延々と続いた結果である。
成田闘争にも同じ構造が見える。1966年に始まった成田空港建設反対運動は、もともと農民の生活権を守るための闘争だった。自分たちの土地を国に奪われることに対する抵抗として、地域住民は正当な異議申し立てを行っていた。しかし新左翼各派が支援に入るにつれて運動の性格は変わっていった。1971年の東峰十字路事件では警察官3人が死亡した。空港の開港は12年遅延し、建設費用は大幅に膨張した。農民たちの生活を守るはずの運動が、農民たちの声とは別の論理で動き始めていた。これもまた、手段が目的を飲み込んだ一例だった。
やがて左派運動は長い冬を迎える。内ゲバの泥沼化、テロ事件の記憶、冷戦終結によるイデオロギーの説得力の喪失。バブル経済とその崩壊は日本社会の関心を経済問題に集中させ、街頭に出て声を上げるという行為そのものが時代遅れのものとして扱われた。社会運動の担い手は高齢化し、若い世代は政治から距離を置いた。投票率は下がり続け、政治的無関心が時代の空気になった。左派政党も衰退の一途をたどった。かつて野党第一党だった日本社会党は党勢を急速に縮小させ、社民党と改称した後も回復の兆しを見せなかった。
その沈黙を破ったのは、2011年3月11日だった。東日本大震災に伴う福島第一原発事故は、日本社会に巨大な衝撃を与えた。放射能への恐怖と、原子力政策への不信感が、長年政治から離れていた市民を街頭に引き戻した。2012年には福島県で16,000人、東京で14,000人規模の集会が開かれ、首相官邸前の抗議活動には主催者発表で最大20万人が参加した。注目すべきは、この運動の性格が1960年代から70年代の左派運動とは根本的に異なっていたことだ。新左翼の組織動員ではなく、市民の自発的な参加が中心だった。特定のイデオロギーに基づく革命ではなく、自分たちの生活と子どもたちの健康を守りたいという切実な動機が人々を動かしていた。暴力は排除され、非暴力が前提とされた。
2015年には、新しい世代が登場する。安保法制(集団的自衛権の行使を可能にする法律)に反対するSEALDsという学生団体が結成され、国会前集会には主催者発表で12万人が集まった。警察発表では3万人という数字もあり、この乖離自体が日本の政治的分断を映し出してもいた。SEALDsは非暴力を徹底し、ソーシャルメディアを活用し、おしゃれなデザインのプラカードを掲げた。1960年代の安保闘争以来の大規模な学生運動として注目を集めたが、その性格は全共闘とは対照的に市民運動的であり、組織は2016年に自ら解散を選んだ。革命を目指したのではなく、具体的な法案への反対という限定的な目標のために集まり、目標が達成できなかった後に潔く退場した。
そして辺野古である。沖縄県名護市辺野古の新基地建設に対する反対運動は、2014年の工事着手以降、継続的に行われてきた。キャンプ・シュワブのゲート前での座り込み、海上でのカヌーによる工事船舶への進路妨害、違法テントの設置。2016年10月には沖縄平和運動センター議長の山城博治氏が器物損壊と威力業務妨害の容疑で逮捕され、約5か月間にわたって拘留された。判決は懲役2年、執行猶予3年。この長期拘留に対しては国際人権団体からも批判の声が上がった。辺野古の抗議活動は、1970年代の過激派とは明らかに性格が異なる市民運動だ。しかし一方で、工事車両の通行を物理的に阻止する行為や、海上保安庁の警備艇への妨害行為、警察官への身体的接触など、法的なグレーゾーンに踏み込む行為も報告されている。
60年を俯瞰すると、ある循環が見える。理想を掲げて声を上げた人々が、その理想の実現手段として暴力を選び、暴力が理想を飲み込み、世論が離反し、運動が孤立し、さらに先鋭化するという循環。1960年の安保闘争は、市民社会の広い支持を背景にしていたからこそ、首相を辞任に追い込む力を持っていた。しかし1970年代に入ると、暴力が手段から目的へと変質し、支持者だった市民が離れ、組織は閉じた空間の中で自壊していった。山岳ベース事件は、その自壊の最も凄惨な形だった。そして2011年以降、暴力を明確に拒否した市民運動が再び立ち上がったとき、左派運動は一度途切れた世論との接点を取り戻しかけた。
辺野古はその接点の最前線にある。県民投票で71.7%が反対を示し、知事選で3回連続して基地建設反対派の候補が当選しているという事実は、沖縄の民意として動かしがたい。しかし民意があるからといって、すべての抗議手段が正当化されるわけではない。座り込みによる道路封鎖は合法的な抗議か、それとも業務妨害か。海上での進路妨害は表現の自由か、それとも危険行為か。この線引きは、辺野古の現場で毎日問われ続けている。そして2026年3月の転覆事故で2人が亡くなったとき、この問いは理論の領域を離れ、人命の重さと直接に向き合うものになった。
この歴史に簡単な結論は置けない。安保闘争の時代に声を上げた人々の切実さは、否定しようがない。樺美智子の死は、権力に対する異議申し立てが命の危険を伴うものだったことを示している。同時に、その異議申し立てが暴力へと変質し、よど号ハイジャック、山岳ベース事件、テルアビブ乱射、三菱重工爆破、そして30年以上にわたる内ゲバへと至った過程もまた、否定しようがない事実だ。理想が暴力を正当化し、暴力が理想を殺した。そしてその暴力の記憶が、声を上げるという行為そのものに対する日本社会の深い警戒心を生んだ。デモに参加すること、抗議の声を上げること、政治的な立場を表明すること。これらの行為に対して多くの日本人が感じる漠然とした居心地の悪さの根底には、1970年代の暴力の記憶がある。
声を上げる権利と暴力のあいだの揺れ。2011年以降の市民運動は、非暴力という原則を明確にすることで、その揺れから一歩踏み出そうとした。SEALDsの若者たちは、全共闘の失敗を知った上で、意識的に別の道を選んだ。辺野古の抗議者の多くも、非暴力を信条としている。けれど現実の運動の現場では、非暴力の原則と物理的な抵抗のあいだの境界線は、つねに揺らいでいる。ゲート前に座り込んで工事車両を止める行為は、非暴力だが物理的な妨害でもある。この曖昧さのなかに、左派運動の歴史が凝縮されている。
亡くなった2人の声を、どう聴くのか。彼らは暴力を選んだ人々ではなかった。しかし彼らの死は、60年にわたる左派運動の歴史という巨大な文脈のなかに否応なく置かれてしまう。安保闘争で声を上げた560万人、山岳ベース事件で声を奪われた12人、内ゲバで命を落とした100人以上、そして辺野古の海で命を落とした2人。この数字の連なりのなかに、日本の左派が歩んだ道の全体像が浮かび上がる。その道のどこが間違いで、どこが正しかったのかを、私はまだ判断できない。ただ、次に見るべきものは分かっている。辺野古の工事が進むなかで、抗議活動の形がどう変わっていくのか。非暴力の原則が現場で維持されるのか、それとも再び境界線が揺らぐのか。その現場の一つひとつに、日本の左派60年の歴史が問われている。
この記事を書いた人
灰島
30代の日本人。国際情勢・地政学・経済を日常的に読み続けている。歴史の文脈から現代を読むアプローチで、世界のニュースを考察している。専門家ではないが、誠実に、感情も交えながら書く。


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