先進国の左派はみな『国を守る』と言い切る。日本だけが降りたまま、70年が過ぎた

安全保障

英下院が472対117で可決した瞬間のことを、考えている。2016年7月、英国議会はトライデント核ミサイル原潜の更新計画を圧倒的多数で承認した。注目すべきは、この賛成票の中に労働党議員の過半数が含まれていたことだ。党首のコービンは核弾頭廃棄を訴えていたが、自党の議員たちは背を向けた。左派であっても、核抑止力の維持は「議論の余地のない前提」だった。私がこの事実を辺野古の反対運動を追いかける文脈で改めて見直したとき、ある種の眩暈のような感覚を覚えた。同じ「左派」という言葉が、国によってこれほどまでに違うものを指しているのか、と。

スターマー首相の言葉は、さらに直截だった。2024年7月に就任した英労働党のスターマー首相は「核抑止力へのコミットメントは絶対的」「NATOへのコミットメントは揺るぎない」と明言し、防衛費をGDP比2.5%に引き上げると約束した。NATOの目標である2%を上回る水準を、保守党ではなく労働党が公約に掲げたのだ。ウクライナへの年間30億ポンド(約6,100億円)の支援継続も約束している。英国の左派にとって、国防は「右派の領域」ではなく、自分たちが担うべき責任の一部なのだ。

ドイツで起きた変化は、もっと劇的だった。2022年2月27日、SPD(社会民主党)のショルツ首相が連邦議会で行った「Zeitenwende(時代の転換点)」演説は、ドイツの戦後防衛政策を根本から覆した。国防費のGDP比2%以上への即時引き上げを表明し、2024年までに32年ぶりとなるGDP比2%を達成した。党内にウクライナ武器供与反対派も存在したが、世論調査では防衛支出の即時増額に78%の国民が支持を示した。SPDは冷戦期から東方政策で対話を重視してきた政党だ。にもかかわらず、ロシアのウクライナ侵攻を前にしてギアを切り替えた。抑止力の整備を拒否する政党が政権を担うことはできないという、苦い現実認識がそこにあった。

フランスの左派は、核を「聖域」として扱ってきた。ミッテラン政権(1981年〜)は社会党政権でありながら、原子力潜水艦5隻とミラージュ爆撃機34機からなる核抑止力(force de frappe)を維持・強化した核兵器近代化予算は通常の軍事費増加率を大幅に上回った。NATOとの距離は保ちつつも、西側陣営の枠内であることは疑わなかった。フランス共産党ですら、1970年代のユーロコミュニズム潮流の中でNATO離脱方針を軟化させている。左派であることと、核を含む抑止力を否定することは、フランスでは同義ではなかった。

韓国の進歩派を見ると、対比はさらに鮮明だ。笹川平和財団の分析が示すように、韓国の進歩派(共に民主党)は在韓米軍の撤退すら主張していない。米韓同盟を支持し、多国間安全保障枠組みを重視する。盧武鉉以来の「自主国防」は、米国からの独立ではなく韓国国防力の自助努力を意味する。北朝鮮の脅威を西側陣営と共有し、米国との連携を不可欠と判断している。日本のすぐ隣に、西側陣営を前提にした進歩性を追求する左派が存在するのだ。

この風景の中で、日本共産党の立場は異質だ。日本共産党の綱領には「日米安保条約を条約第十条の手続きで廃棄する」と明記されている。自衛隊の段階的解消を掲げ、安保廃棄前に海外派兵立法中止と軍縮、安保廃棄後に自衛隊の民主化と大幅軍縮、最終的に国民合意で憲法9条の完全実装という3段階を提唱する。西側陣営からの離脱を綱領に明記した先進国の左派政党は、私が調べた限り、日本共産党以外に見当たらない。英労働党がNATOに絶対的な忠誠を誓い、SPDが軍備増強を主導し、仏社会党が核の聖域を守り、韓国進歩派が米韓同盟を堅持する中で、日本共産党だけが西側の外に出口を探し続けている。

社民党もまた、非武装中立を手放しきれない。歴史的に「自衛隊は憲法違反」を公式立場としてきた社民党は、1994年の自社さ連立で村山首相が「自衛隊は合憲」「日米安保堅持」に転換したが、2004年に福島瑞穂党首が非武装中立への回帰を表明し、再び元の立場に戻った。政権に参加して現実を受け入れ、下野した後に原点回帰するという振幅は、党の一貫性を著しく損なった。しかしその核心にある「非武装で国は守れる」という信念は、世界の先進国左派の中では極めて孤立した立場であることに変わりない。

なぜ日本の左派だけが、この位置に留まるのか。構造的な要因のひとつは、ユーロコミュニズムの不在だ。1970年代、欧州の左派政党はソ連型共産主義から決定的に距離を置き、西側民主主義の一員として東側の脅威に対抗するという論理を自力で確立した。イタリア共産党のベルリングエル、スペイン共産党のカリーリョ、フランス共産党のマルシェといった指導者たちは、モスクワの路線から離れることで自国の政治参加権を勝ち取った。日本共産党はこの転換に参加しなかった。中ソ対立期から続く反帝国主義路線を維持し、「西側からの脱出」そのものをアイデンティティの核に据え続けた。

もうひとつの要因は、政権経験の乏しさだ。英国の労働党はブレアやスターマーのもとで政権を担い、フランスの社会党はミッテランのもとで核のボタンを握り、ドイツのSPDはシュレーダーやショルツとして首相を送り出した。政権を担うということは、国防の現実に直面するということだ。左派であっても核ミサイルの発射コードを引き受けなければならないし、同盟国に武器を送るかどうかの決断を迫られる。その経験の蓄積が、「左派も国防政策の責任主体である」という自信を育んだ。日本の左派には、村山内閣の短期間を除けば、この経験がほとんどない。結果として「反対」で止まり、代替案のない野党に留まり続けた。

ここまでは政党政治の比較で片付くかもしれない。しかし日本の左派の異質さには、政党政治では説明しきれないもうひとつの層がある。それは戦後日本の言論空間そのものに埋め込まれた構造だ。この構造を理解するためには、少し歴史を遡る必要がある。

占領期の言論統制は、歴史的事実として確認できる。GHQ/SCAPの民間情報教育局(CI&E)は、1945年10月から新聞・雑誌・ラジオ・映画を通じて日本国民の歴史認識を転換しようとした。「WGIP(War Guilt Information Program)」という名称と概念は1989年にジャーナリスト江藤淳が初めて提唱したもので、GHQ内部文書の一部がドラフト段階であるなど、その範囲と影響度については学術的な論争が存在する。しかしプレスコード(SCAPIN-33)に基づくSCAP批判の禁止、原爆被害報道の発禁処分、個人の手紙を含む広範な検閲が実施されたこと自体は、歴史的記録として残っている。

問題の核心は、占領が終わった後に起きたことだ。1952年のサンフランシスコ講和条約発効で占領は終わり、プレスコードは失効した。日本は独立国として、言論の自由を取り戻した。にもかかわらず、占領期に形成された歴史認識の枠組みは、その後も自発的に継続された。家永三郎の教科書裁判(1965年提訴、1997年終結)は32年にわたって教科書検定制度の枠組みを法廷で争ったが、制度の基本構造は占領期の設計を引き継いだままだった。そして1980年代以降、メディアがこの歴史認識の枠組みを能動的に強化する主体として機能し始めた。占領者の圧力なしに、日本側が自発的に継続を選択した。この自発性こそが、この問題を「外部からの押し付け」として片付けることを困難にしている。

朝日新聞の吉田証言報道は、その象徴的事例だ。1982年9月、朝日新聞は吉田清治の証言を初報道した。済州島で女性を強制連行して慰安婦にしたという告白だった。1992年には産経新聞がこの証言への疑問を指摘し、1997年には朝日新聞自身が特集記事で虚偽の指摘を報じた。しかし正式な記事撤回は2014年8月まで行われなかった。初報から32年だ。この32年間に、吉田証言は国内外で「事実」として流通し、1993年の河野談話や1996年の国連クマラスワミ報告の背景を形成した。一つの新聞記事が、外交問題の土壌を32年かけて培養していた。

靖国問題の経緯にも、同じ構造が見える。1978年10月にA級戦犯が靖国神社に合祀された。翌年の報道で事実は公知となった。しかし、1979年から1985年7月までの間に歴代首相は計21回参拝しており、中国・韓国からの公式な非難は一切なかった。外交問題が生じたのは1985年のことだ。朝日新聞が8月7日に「靖国問題」特集記事を掲載し、8月14日に中国政府が初めて公式に懸念を表明し、翌15日に中曽根首相が初の「公式参拝」を実施した。合祀から7年間の沈黙を破ったのは、「事実の発見」ではなく、「報道と政治的宣言のタイミング」だった。

近隣諸国条項の成立過程は、さらに鮮烈だ。1982年6月、日本テレビの記者が「文部省が教科書検定で『侵略』を『進出』に書き改めさせた」と報じた。しかし実際には、文部省は「華北進出」を「華北侵略」に修正するよう指示していた。報道は事実と正反対だったのだ。にもかかわらず、この誤報に基づいて中国と韓国が抗議し、宮沢官房長官が談話を出し、教科書検定基準が改正された。「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象について、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という条項が制度化された。誤報に基づいて生まれたこの条項は、40年以上にわたって日本の教科書検定の自主規制メカニズムとして機能し続けている。制度が定着すると、成立過程の誤報という事実は社会の記憶から消え、条項そのものが「当然の前提」として固定化される。

これらの事例に共通する構造を、私は整理しておきたい。「事実が発見されたから外交問題になった」のではなく、「報道と政治的宣言のタイミングが重なったときに外交問題が生まれる」という構造だ。A級戦犯の合祀は7年間問題にならなかった。吉田証言は32年間撤回されなかった。近隣諸国条項は誤報に基づいて成立した。いずれも、「事実」そのものの重みではなく、「事実がどのように提示され、誰がいつ反応したか」によって外交問題としての輪郭が決まっている。

占領期の教育改革には、功と罪の両面がある。教育勅語の廃止と新しい教育基本法の制定は、「修身」から「道徳」への転換であり、皇国史観から複数の視点による歴史認識への移行であり、男女共学の実現でもあった。これらは日本社会を開いた側面を持つ。同時に、教育勅語に含まれていた「孝行」「友情」「礼儀」といった道徳的価値が急激に廃止されたことで、道徳教育の真空期間が生まれたという指摘もある。1948年の国会における教育勅語排除決議が「全員一致」であったことに、占領軍の圧力がどこまで作用していたかも議論が続いている。功罪のどちらに重心を置くかは、論者の立場によって変わる。私は片方だけを選ぶことに意味を感じない。

ここで冒頭の問いに戻りたい。なぜ日本の左派だけが、先進国の左派の中で唯一、西側同盟からの離脱を綱領に掲げ続けているのか。ユーロコミュニズムの不在、政権参加経験の欠如、反帝国主義路線の継続という政党政治の構造がある。同時に、占領期に形成された歴史認識の枠組みが独立後もメディアと教育を通じて自発的に継続され、「日本は加害者であり、だから武力を持つべきではない」という論理が言論空間に定着したという構造がある。この二つの構造は互いに補強し合っている。左派の非武装論は、自虐史観と呼ばれる歴史認識によって道徳的な正当性を得てきた。そして自虐史観は、左派メディアによる報道の蓄積によって言論空間に固定されてきた。

私はこの構造を「悪」とも「善」とも呼ぶつもりはない。ただ、構造として見つめている。英労働党の議員たちが核ミサイル更新に賛成票を投じたとき、彼らは「左派であっても国を守る責任がある」と判断した。SPDのショルツが「Zeitenwende」を宣言したとき、彼は「左派であっても安全保障環境の変化に応答する義務がある」と判断した。日本の左派は、それとは異なる判断を下し続けている。どちらの判断が正しいかを決める権利は、私にはない。しかし、日本の左派の判断が先進国の中で唯一無二であるという事実は、少なくとも正確に認識されるべきだ。

WGIPを陰謀論として一蹴することも、すべての原因として過大評価することも、私は避けたい。占領期の言論統制は歴史的事実として存在した。しかしその直接的な強制力は1952年で終わっている。その後の70年余りにわたって、日本のメディア・知識人・教育者が自発的にその枠組みを継続・強化してきたことの方が、むしろ説明を要する現象だ。なぜ外部の圧力が消えた後も、フレームだけが残り続けたのか。その問いに対する単純な答えを、私は持っていない。

辺野古の反対運動を追いかけてきた私の目に映るのは、こうした複層的な構造の末端だ。辺野古の現場には、環境保護の信念を持つ人がいて、沖縄の自己決定権を主張する人がいて、日米安保体制そのものに反対する人がいる。それぞれの動機は同じではない。しかし「米軍基地反対」という旗のもとに合流したとき、その運動は世界の左派が当然のように引き受ける「国防の責任」を括弧に入れたまま進んでいる。この括弧は、日本の左派に固有のものだ。英労働党にも、SPDにも、韓国の共に民主党にも、この括弧は存在しない。

だとすれば、この括弧はどこから来たのか。ユーロコミュニズムに参加しなかった日本共産党の選択。占領期に形成され、独立後も自発的に継続された歴史認識の枠組み。誤報に基づいて制度化され、40年以上固定化された教科書検定基準。32年間撤回されなかった新聞記事が培養した外交問題の土壌。7年間の沈黙を経て、報道と政治的宣言のタイミングで突然生じた靖国問題。これらの事象は、それぞれ個別に検証可能な歴史的事実だ。そしてそれらが重なり合った結果として、世界の左派の中で日本だけが異なる場所に立っているという現在がある。

私はこの現在を「間違っている」と断じることができない。日本の左派にも、歴史から引き出した論理がある。戦争の記憶、加害の事実、核の惨禍、アジア諸国との関係修復。これらの経験は実在し、そこから非武装の理想が生まれたこと自体を否定する権利は誰にもない。しかし同時に、その理想が世界の左派の中で共有されていないという事実にも目を向けなければならない。同じ「左派」であっても、英国の左派は核を抱え、ドイツの左派は軍を増やし、フランスの左派は核の聖域を守り、韓国の左派は米韓同盟を堅持する。彼らが国防の責任を引き受けたのは、右傾化したからではない。現実の安全保障環境の中で、国民を守る責任を自らの手で担うことが左派の使命だと判断したからだ。

日本の左派が立っている場所の特殊性は、辺野古だけではなく、安全保障政策全体に影を落としている。「代替案なき反対」が常態化した野党と、国防政策の議論が実質的に与党内でしか行われない国会。この構造は、民主主義における安全保障議論の質を損なっている。世界の左派が政権担当能力を持つ国防政策を提示することで有権者に選択肢を提供しているのに対して、日本の野党は「反対」を超えた選択肢を示すことに長年失敗してきた。この失敗の根にあるものを、私はもう少し掘り続けなければならないと思っている。

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この記事を書いた人

灰島

30代の日本人。国際情勢・地政学・経済を日常的に読み続けている。歴史の文脈から現代を読むアプローチで、世界のニュースを考察している。専門家ではないが、誠実に、感情も交えながら書く。

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