自衛隊がフィリピン国内で初の実戦的な共同訓練を行ったという報道を読んで、感慨に近いものを感じた。ジャパンタイムズが報じたように、陸上自衛隊の部隊がフィリピン軍と南フィリピンで水陸両用作戦訓練を実施した。この訓練は日本とフィリピンの間に2024年に締結された「円滑化協定(RAA)」に基づくものだ。つい数年前まで、自衛隊が外国の土地で戦闘訓練を行うことは法的にも政治的にも難題だった。それが現実のものとなっているという事実は、日本の安全保障政策が大きく変わりつつあることを示している。
日フィリピン防衛協力の急速な強化は、中国の南シナ海での活動の激化と切り離せない。中国はスプラトリー諸島・パラセル諸島・スカボロー礁など南シナ海の大部分に主権を主張し、人工島の建設と軍事化を進めてきた。フィリピンは2016年の仲裁裁判所裁定でこれらの主張が国際法上無効とされたにもかかわらず、中国が主張を撤回しないという状況に直面している。中国海警局船がフィリピン漁船の操業妨害や補給船への放水銃攻撃を繰り返すという事態も続いており、フィリピンにとって中国の海洋圧力は現実の脅威だ。
マルコス・ジュニア政権は、ドゥテルテ前政権の親中路線から大きく転換した。ドゥテルテ政権は米国と距離を置きながら中国との経済関係を重視したが、マルコス政権は米国との同盟を再強化し、フィリピン北部のカガヤン州など米軍の使用可能な基地を拡大する方向に舵を切った。この政策転換の背景には、フィリピン軍内での中国の脅威認識の高まりと、実際の南シナ海での摩擦の激化がある。フィリピンが「米国・日本・オーストラリア」との安全保障連携を深める方向に動いたことは、インド太平洋の安全保障地図を塗り替える意味を持つ。
日本にとってフィリピンとの防衛協力は、台湾有事シナリオの文脈で重要な意味を持つ。台湾はフィリピンの北に位置しており、台湾有事が起きた場合、フィリピンは地理的に戦略的な重要性を持つ。台湾への中国軍の攻撃は、フィリピン海を経由した軍事行動に影響し、フィリピン近海の安全保障状況を変える。日本が第一列島線(沖縄・台湾・フィリピンを結ぶ島嶼鎖)の防衛について考えるとき、フィリピンとの協力は欠かせない要素だ。今回の共同訓練は、この文脈における両国の安全保障連携の具体化だ。
円滑化協定(RAA)は、日本の防衛外交の新時代を象徴する協定だ。RAAとは、相手国の領土内での自衛隊の活動を可能にする法的枠組みだ。日本はすでにオーストラリアとRAAを締結しており、フィリピンはそれに次ぐ相手国となった。英国・フランスとの締結交渉も進んでいる。これらの協定の積み重ねは、自衛隊が「国内専守防衛」から「地域的な安全保障への関与」へと活動範囲を広げていくことを可能にする。この変化は、日本の安全保障政策の転換の中でも特に具体的で実践的な変化だ。
中国はこの日フィリピン防衛協力強化を強く批判している。中国外務省は「地域の緊張を高める」という定型的な批判を行い、フィリピンが「外部勢力の道具になっている」と主張している。しかし中国自身の南シナ海での行動——人工島の軍事化、海警局による強圧的な活動——がフィリピンを安全保障連携強化に向かわせた根本的な原因であることは明らかだ。中国の批判はその意味で、自業自得の側面がある。南シナ海での中国の行動が変わらない限り、この連携強化のトレンドは続くだろう。
米国の関与という文脈で見ると、今回の訓練は日米比三国間の安全保障連携の深化という流れの一部だ。バイデン政権のもとで日米比三国首脳会談が初めて開催され、三国間の防衛協力の枠組みが公式化された。この枠組みはトランプ政権下でも継続されており、インド太平洋における米国の同盟網の強化という観点から、日本とフィリピンの二国間協力も支持されている。南シナ海と台湾海峡という隣接する地域での安全保障を、米国・日本・フィリピンが連携して考える体制が整いつつある。 欧州が122兆円の防衛費増額に踏み切った
東南アジアの地政学的環境は、かつてないほど複雑だ。ASEAN諸国は中国との経済関係を維持しながら、中国の海洋進出に対するバランスを求めるという難しい立場にある。フィリピンのように安全保障面で米国・日本との連携を深める国がある一方、カンボジア・ミャンマーのように中国寄りの立場を取る国もある。ASEAN内での意見の分散は、地域として統一した対中メッセージを発することを難しくしている。日本は二国間の安全保障協力を重ねながら、ASEAN全体の対話プロセスも大切にするという複層的なアプローチが求められる。
海上保安庁と海上自衛隊のフィリピン沿岸警備隊との協力強化も、この連携の重要な一部だ。軍事的な共同訓練と並行して、海上保安能力の強化支援という「グレーゾーン」対応の観点からの協力も積み重なっている。フィリピン沿岸警備隊が中国海警局の圧力に対応するための装備・訓練の提供は、軍事的エスカレーションを避けながら現実の脅威に対処するための現実的なアプローチだ。法執行機関同士の協力を通じた能力支援は、自衛隊の共同訓練と相補的な役割を果たしている。
日本の防衛費増額がフィリピンとの協力を実質化させる経済的基盤を提供している。防衛装備品の移転、自衛隊の海外活動のための輸送・補給体制の整備、共同訓練の費用負担——これらはすべて防衛予算の拡大がなければ実現が難しかった。「GDP比1%」という長年の防衛費の制約が緩和されたことで、日本の安全保障協力の地理的・内容的な範囲が拡大している。国内の予算制約という実践的な変化が、対外的な安全保障協力の拡大を可能にしている。
フィリピンとの安全保障協力強化は、経済・外交・開発援助という幅広い協力関係の中に位置づけられるべきだ。日本はフィリピンの最大の政府開発援助(ODA)供与国の一つであり、インフラ整備・人材育成・農業など多分野での協力の積み重ねがある。安全保障協力は、この幅広い関係の中での信頼関係の上に構築されるものだ。「軍事だけ」の関係ではなく、開発・経済・外交・安全保障が統合された包括的なパートナーシップとして深化していくことが、長期的に安定した両国関係の基礎となる。
楽観シナリオは、日フィリピンの安全保障協力が南シナ海での中国の強圧的な行動を抑止する方向に機能する展開だ。日本・米国・フィリピン・オーストラリアの連携した抑止力が高まることで、中国が武力による現状変更のコストを高く見積もり、外交的手段を重視するようになる。南シナ海の緊張が管理可能な水準に保たれることで、地域の安定と貿易ルートの安全が維持される。抑止が機能する状態が続けば、長期的には対話を通じた緊張緩和の機会も生まれる。
悲観シナリオは、安全保障の強化が偶発的な衝突のリスクを高める展開だ。軍事訓練・海警局の活動・漁船の操業が重なる南シナ海では、意図せぬエスカレーションのリスクは常に存在する。日本・フィリピン・米国の軍事的な関与が深まれば、中国との直接的な摩擦が生じた際のエスカレーションラダー(緊張の段階的上昇)も高くなる。「意図せず起きた事故」が戦争のトリガーになる可能性を、歴史は繰り返し示してきた。抑止と対話の両立という微妙なバランスを保つことが、今後の課題だ。
今回の共同訓練が示す変化の本質は、日本が地域安全保障のプレーヤーとして積極的な役割を担い始めたことだ。「経済大国・軍事小国」という戦後日本の自己規定は、少しずつしかし着実に変化している。この変化が、地域の安定に貢献するものとなるか、あるいは新たな緊張の源泉になるかは、日本が軍事的な能力の拡大と同時に外交的な対話のチャンネルを維持できるかどうかにかかっている。能力と外交のバランス——これが日本の安全保障政策に課せられた根本的な問いだ。 中国が「失われた十年」に突入しようとしている
南シナ海の安全保障は、日本にとって「遠い場所の問題」ではなく、日本の貿易ルートと直結した経済安全保障の問題だ。日本の輸出入の大部分は海上を通じており、南シナ海はその重要な通過点だ。南シナ海が中国の実効支配下に置かれた場合、日本の海上輸送路は中国の意向に左右されるリスクが生じる。フィリピンとの防衛協力は、この観点からも日本の経済的利益を守るための戦略的行動として理解されるべきだ。安全保障とエネルギー安全保障と経済安全保障は、今日の日本において切り離せない問題だ。
フィリピンの地政学的位置の重要性は、台湾問題だけでなくシーレーン全体の文脈で理解すべきだ。フィリピンは第一列島線の一部を構成するだけでなく、太平洋とインド洋・南シナ海を結ぶ海上交通の結節点でもある。マラッカ海峡・スンダ海峡・ロンボク海峡というインドネシア経由の通過ルートと並んで、フィリピン海を経由するルートは日本の輸送ルートに直結している。フィリピンとの安全保障協力を深めることは、日本の経済安全保障という観点から見ても合理的な選択だ。安全保障と経済安全保障を統合的に考える視点が、今後の日本の対フィリピン関係においても重要になる。
日本・米国・フィリピンの三国間安全保障連携は、2024年以降に制度化が加速した。バイデン政権下での首脳会談で発表された共同宣言は、三国間協力の具体的な枠組みを提示し、軍事訓練・情報共有・海上安全保障支援などの分野での協力を明記した。トランプ政権に移行した後もこの枠組みは維持されており、これは同盟管理の継続性という観点で重要だ。日本・米国・韓国・オーストラリア・フィリピンという広域的な連携網は、インド太平洋の安全保障アーキテクチャーの変容を示している。中国はこれらの連携を「封じ込め」と批判するが、連携の動因は中国自身の行動にある。
フィリピンが日本との防衛協力を深める経済的な側面にも注目する必要がある。日本はフィリピンに対してODA・インフラ投資・技術移転など幅広い経済協力を行ってきた。防衛装備品の移転や能力構築支援もこの文脈で理解される。フィリピンにとって日本との安全保障協力は、米国との同盟維持と並んで「大国に依存しながらも自律性を確保する」という戦略の一部だ。フィリピンが複数の安全保障パートナーとのバランスを取ることで、特定の大国への過度の依存を避けようとする姿勢は、ASEAN的な外交の伝統と符合している。日本はこの戦略的文脈を理解した上で、フィリピンとの協力を設計する必要がある。
水陸両用作戦能力の強化は、日本自身にとっても尖閣諸島・南西諸島防衛という文脈で重要だ。自衛隊は近年、水陸機動団(日本版海兵隊)の設立など、離島防衛能力の強化に取り組んでいる。フィリピンでの共同訓練は、実際の地形・気候・作戦環境でこれらの能力を検証する機会でもある。「訓練する場所と戦う場所が似ている」という軍事的なリアリズムから考えると、フィリピンの熱帯の島嶼地形での訓練は、日本の南西島嶼での作戦を想定した準備として直接的な価値がある。日本の防衛政策の転換が、具体的な戦闘能力の向上という形で実体化していることを示す事例だ。
南シナ海問題での国際法的な枠組みの維持は、日本にとって海洋法の観点からも重要な問題だ。2016年の仲裁裁判所裁定がフィリピンの主張を認め、中国の「九段線」主張を否定したことは、国連海洋法条約(UNCLOS)の解釈において重要な先例だ。中国がこの裁定を無視し続けることを許せば、UNCLOSという国際法秩序が機能しないという危険なメッセージになる。日本の排他的経済水域(EEZ)も様々な文脈で中国との間に問題を抱えており、フィリピンを支援することは日本自身の海洋権益保護という観点からも利益になる。法の支配を支持することが、長期的に日本の利益に直結している。
フィリピンとの防衛協力が「軍事的な協力のみに偏らないか」という点は、常に意識する必要がある。防衛協力の見える化(訓練・装備・合意)と比べて、人道支援・災害救援・海洋ガバナンスなどの「ソフトな協力」は注目されにくい。しかしフィリピンのような国との関係において、日本の存在感と信頼関係を長期的に維持するのは、軍事的な存在感だけでなく、台風・地震などの自然災害時の支援や、フィリピンの人材育成への貢献などを通じた「信頼の積み重ね」だ。安全保障協力は、より広い協力関係の一部として位置づけられてこそ、持続的で正統性のある関係を生む。
この記事を書いた人
灰島
30代の日本人。国際情勢・地政学・経済を日常的に読み続けている。歴史の文脈から現代を読むアプローチで、世界のニュースを考察している。専門家ではないが、誠実に、感情も交えながら書く。


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