世界一のシェフが辞めた。「天才」と「暴君」は紙一重だったのかもしれない

世界トップの料理人が退場。こういうニュースがBBCで報じられた。デンマークのコペンハーゲンにある「ノーマ」というレストランのヘッドシェフ、ルネ・レゼピが辞意を表明したという話だ。ノーマといえば、世界のベストレストラン50に何度もトップとして選ばれてきた、まさに現代の美食界の頂点に立つ存在。そのトップが去ることになった背景には、元従業員たちによる「職場環境がひどかった」という告発があった。

謝罪してもぬぐえなかった過去。レゼピ自身は以前、過去の言動について謝罪したことがある。だが今回の辞任は、その謝罪では収まりがつかなかったことを意味している。元スタッフたちが語ったのは、怒鳴り声、精神的プレッシャー、恐怖に支配された厨房の空気だった。「天才的な料理を生み出すためには厳しさが必要だ」という話は、料理の世界に限らずよく聞く。でもそれと「ハラスメント」は違う。このラインを超えていたとしたら、これは正直きつい話だと思う。どれだけ料理が素晴らしくても、人を傷つけていいことにはならない。

北欧の食文化革命とその影の部分。なぜこういう文化が生まれたのかを考えると、ノーマが担ってきた役割の重さが見えてくる。2000年代以降、北欧料理というのはほとんど「哲学」に近い存在になっていった。地元の食材を使い、発酵や乾燥といった伝統技法を現代に昇華させ、「フランス料理が絶対じゃない」と世界に証明してみせた。デンマークという国はもともと福祉国家として知られ、働く人を大切にする文化が根付いている。「世界一幸福な国」のランキングに常連として顔を出す国だ。それだけに、その国で生まれた最先端レストランの内側が「恐怖の支配」だったというのは、なんとも皮肉な話である。完璧主義と創造性の追求が、ある閾値を超えたとき、それは「文化」ではなく「暴力」になる。

世界のSNSでも議論は白熱。X(旧Twitter)で「Noma head chef」と検索すると、さまざまな声が流れてきている。「彼の料理は本物だったが、やり方は許されない」という声がある一方で、「料理界の頂点を目指すならこのくらいの厳しさは当然だ」という意見も根強い。また「ノーマが閉店の方向に向かいつつある中でのタイミングも気になる」と指摘する人もいる。実際、ノーマは2024年末にレストランとしての営業を終了する方針を以前から示していた。その文脈でこの辞任を見ると、単なる謝罪劇ではなく、一つの時代の終わりに向けた整理のようにも見えてくる。

日本の飲食業界にも無縁ではない話。これが日本にどう関係するかというと、決して対岸の火事ではない。日本の飲食業界、特に高級料理の世界もまた「修行文化」と「体育会系のヒエラルキー」が強く残る世界だ。長時間労働、徒弟制度的な師弟関係、声を上げられない空気。これらは日本の伝統的な職人文化の美しい側面でもあるが、裏を返せばハラスメントが見えにくくなる構造にもなりやすい。ノーマの件が世界的な注目を集めることで、「料理人の労働環境」や「創造性と暴力の境界線」という問題意識が日本にも波及してくる可能性は十分ある。実際、日本でも飲食業界の働き方改革は近年着実に進んでいるし、ハラスメントへの意識は若い世代を中心に確実に変わってきている。日本料理が持つ「丁寧さ」「繊細さ」「職人の誇り」という文化的な強みは、むしろ人を大切にすることとセットで語られるべきものだと思う。

ポジティブとネガティブ、両方の道が見えている。ポジティブなシナリオとして考えられるのは、今回のような事例が「見える化」されることで、料理界全体が自浄作用を働かせていくという流れだ。実際に北欧では、この件を受けて飲食業界の労働環境に関する議論が活発化している。「厳しさ」と「ハラスメント」を明確に分けようとする動き、シェフの精神的健康を守るサポート体制の整備、こういった取り組みが加速すれば、業界全体が健全になっていく。それは世界の美食文化にとってプラスになるし、日本の料理人が海外で活躍するチャンスにも繋がってくる。一方でネガティブなシナリオとして懸念されるのは、「厳しくできないなら創造性は生まれない」という方向への揺り戻しだ。ノーマが作り上げた「妥協なき姿勢」が神話化されることで、ハラスメントが「必要悪」として正当化されてしまう空気が残ってしまうケースは、残念ながらゼロではない。

カギは「次のノーマ」が何を見せるか。今後注目すべきは、ノーマの「次」が何を生み出すかだと思う。レゼピはレストランのヘッドシェフを退くが、ノーマ自体は食品開発やプロジェクトという形で続いていく見込みがある。その中で、持続可能で人道的な環境からも世界を驚かせる料理や食文化が生まれることを証明できれば、それは業界全体への強いメッセージになるだろう。天才と呼ばれるためにハラスメントは必要ない、ということを結果で示すことが、ノーマの次なる役割になる。そしてそのモデルは、日本の飲食業界が世界に発信していく上でも、一つの重要な参照点になっていくはずだ。

出典:BBC World

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