Appleは4月20日、Tim CookがCEOを退任し、Executive Chairmanに就くことを発表した。後任のCEOは、Senior Vice President of Hardware Engineeringを務めるJohn Ternusが9月1日に就任する。Cookは62歳、Ternusは50歳。25年の任期を経て、Appleの最高権力者は、営業・供給網責任者から製品責任者へと交代することになった。
この人事が何を意味するのか、ニュースの表面だけを見ていては分からない。CookはCEOを務めた15年間、Appleのサプライチェーンを世界中に散らばらせることに人生を費やした。中国への依存から脱却し、インド、ベトナム、日本といった複数の国に製造を分散させるという戦略。その仕事は地味で、報道されることも少なく、投資家ですら細部を理解している者は少ないだろう。だが、その土台の上にこそ、現在のAppleが成り立っている。そのCookが後ろに引くとき、Appleは何を選ぼうとしているのか。
Ternusの経歴をたどると、2001年にAppleに入社してから四半世紀、彼はハードウェアエンジニアとして製品の内部を設計し続けてきた人間だ。最初はApple Cinema Displayから始まり、AirPods、Mac、iPad、Apple Watch、Vision Proといった、Appleの歴史を形づくった製品たちの内部構造をすべて手がけている。彼の頭の中には、微細な回路配置、部品の最適配置、製造プロセスの細部が詰まっている。つまり、Appleが次に何を作るか、どう作るかを最も深く理解している人間が、会社全体の責任者になるということだ。
この交代がもたらす含意は明らかだ。Cookの時代が「如何にして既存製品をより効率的に、より安全に製造するか」という供給網の最適化だったとすれば、Ternusの時代は「次に何を作るべきか」という製品開発への回帰を示唆している。AI時代、スマートフォンの成長が鈍化した現在、Appleは「iPhone以降」に何があるのかを問い直す必要に迫られている。その問い直しを、製品エンジニアの視点で進めようとしているのではないか。
Tim Cookの遺産を正当に評価する必要がある。Cookが2011年にCEOに就任したとき、AppleはiPhoneの成功に酔いしれていた。だが同時に、製造とサプライチェーンの脆弱性に直面していた。中国への依存度は異常で、政治的リスクが日増しに高まっていた。Cookはこの課題に取り組むために、15年の時間を費やした。2011年のiPhone売上は約1450億ドルから、2024年には約2350億ドルへと成長させながら、同時に製造拠点を分散させた。インドでの製造比率は2014年の0.3%から2025年の25%へと上昇した。ベトナムでの製造も同様に加速した。その一方で、日本のサプライヤーとの関係を維持した。つまり、Cookは「成長」と「リスク分散」という相反する課題を両立させた稀有な経営者だった。その成果は業界内で「Cookの奇跡」とさえ呼ばれている。
だが供給網という視点から見ると、この人事には別の意味もある。Cookが15年かけて構築した、複雑に絡み合った製造ネットワークは、一朝一夕には変えられるものではない。むしろ、それを前提にしながら、その上で次世代製品をいかに効率的に作るか、というエンジニアリングの課題が、次の経営者の前に置かれることになる。Ternusが製品責任者だからこそ、その複雑さを身体で理解している。その理解を持ったまま、会社全体の舵を取る、ということになる。
日本のサプライチェーンについて考えてみよう。Appleが日本企業に依存している度合いは、外部からは見えにくい形で深い。Appleが日本のサプライヤーに投じた額は100億ドルを超えており、Sonyはそのなかで最大のサプライヤーだ。ソニーはiPhoneのカメラセンサーをほぼ独占的に供給し、村田製作所は多層セラミックコンデンサー(MLCC)という目に見えない部品で世界市場の30~40%を占め、TDKはインダクタコイルと新型TMRセンサーを供給している。これらは、iPhoneの内部にある1282個の日本製部品の一部に過ぎない。京都セラミック(現京セラ)の光学部品、村田製作所のRF部品、太陽誘電の薄膜共振器、これらすべてがiPhoneの性能を支えている。
ここで重要なのは、これらの企業の担い手たちの顔が、消費者の前に現れることは決してないということだ。ソニーのセンサー設計チームも、村田製作所のコンデンサー開発陣も、そのエンジニアリングが最高水準だからこそ、iPhoneの性能が支えられている。だが彼らの名前は知られず、彼らの仕事は「部品」という名前で集約される。その見えない努力が何年も、何十年も積み重なった結果が、iPhoneという製品の完成度として現れるのだ。日本の製造業文化が生み出した「職人気質」と「改善への執着」が、Appleの製品品質の基盤となっている。
Apple Intelligenceとオンデバイスエンジニアリング。これがTernusが時代の次に見据えているテーマだと考えられる。Appleは2024年、「Apple Intelligence」という、デバイス上で動作する生成AIを発表した。これはクラウドベースのAIではなく、オンデバイス処理を強調する。つまり、プロセッサの性能、チップ内のメモリアーキテクチャ、電力効率。これらすべてが従来以上に重要になってくる。Ternusが得意とする領域は、まさにこれらだ。次世代のAppleは、単にハードウェアを製造するだけでなく、AI時代に対応したハードウェア設計を要求される。その要求に応えるためには、エンジニアの視点が不可欠だ。Cookの時代は「製造の効率化」だったが、Ternusの時代は「AI対応ハードウェアの革新」になるだろう。
Johny Sroujiの新しい役職も象徴的だ。Cookに代わってハードウェアエンジニアリング部門の責任者に就いたSroujiは、設計から製造まで含めた「統合的なチップ設計」を得意とする人物だ。Appleは独自チップ(A-シリーズ、M-シリーズ)に投資し続けており、その内部構造は業界で最も複雑だ。Sroujiはそのチップアーキテクチャの最前線にいた人物である。つまり、Appleは製造戦略の最前線を、よりテクニカルな方向へ舵を切った。この動きは、「インドやベトナムでのコスト競争」から「日本との高度な技術協業」へのシフトを示唆しているかもしれない。
Cookの時代、日本のサプライチェーンは微妙な立場にあった。Appleはインドやベトナムへの製造シフトを急速に進めていた。2025年の段階で、Appleの全iPhoneの約25%がインドで製造されるようになり、iPhoneの全ラインナップがインド製造で揃うようになった。一方、Cookはベトナムにも定期的に足を運び、供給网の多様化を進めた。中国依存からの脱却、地政学的リスク管理が目標だ。
その過程で、日本のサプライヤーの位置づけはどうなったのか。ソニーのカメラセンサーは、代替品がない。村田製作所のMLCCも、技術水準の高さから、依然として不可欠だ。だが同時に、Appleは日本以外の地域での部品調達も加速させている。つまり、日本の企業は「なくてはならない」が「唯一ではない」という微妙な立場に置かれた。これは、日本の製造業にとって居心地の悪い位置づけだ。自社の優位性が失われたわけではないが、相対的な重要度は低下していく。その空気を、日本の現場のエンジニアたちはひしひしと感じているだろう。
日本市場でのAppleの支配力はさらに高まっている。日本でのAppleのスマートフォンシェアは約50%に達し、世界平均の27%を大きく上回っている。つまり、日本市場はAppleの最大のドル箱の一つだ。また、MacやiPadなどのデバイスでも、日本でのシェアは世界平均よりも高い。Ternusがハードウェアエンジニアとして、この日本市場の重要性を理解していることは確実だ。日本のユーザー層は、技術への理解が深く、品質への要求基準が高い。Ternusは、そのような市場の声をどのように次世代製品に反映させるか、という課題に直面することになる。日本市場での成功が、Appleの次世代戦略を大きく左右する可能性がある。
Ternusが新しいCEOになることで、日本との関係の構図は変わる可能性がある。彼はエンジニアだからこそ、「最高の部品」「最も信頼できるサプライヤー」の価値を理解している。営業的な観点から「代替可能な部品」と見なすのではなく、技術的観点から「この部品なしには存在しえない」という製品論を持つ人間だ。実際に、TernusはSVP就任以降、AirPodsやApple Watchのような、複雑なハードウェアエンジニアリングが求められる製品群の開発を主導してきた。彼のバックグラウンドには、「最高のエンジニアリング・パートナーとの長期的な関係」という考え方が深く刻まれているはずだ。その視点が、日本のサプライヤーとの関係を再定義する可能性を秘めている。
サプライチェーン多様化の次のフェーズ。Cookの時代は「地政学的リスク管理」に重点が置かれた。インド、ベトナム、メキシコなど、複数の国に製造を分散させることで、中国の政治的リスクを低減させるという戦略だ。だが次のフェーズは「技術的な卓越性」に重点が置かれるだろう。Apple Intelligenceを含む次世代の機能を支えるためには、単なる「製造能力」では不足する。高度な部品設計、微細プロセス、歩留まり管理。これらすべてが必要だ。日本のサプライヤーは、これらの分野で世界最高水準を保っている。つまり、Ternusの時代は、日本のサプライヤーにとって「相対的な重要度が再び上昇する」可能性を秘めているのだ。村田製作所の多層構造の実装技術、ソニーのセンサー製造プロセス、TDKの高周波部品設計。これらが次世代のAI対応デバイスでいっそう重要になる。
同時に、新たな課題も生まれる。Appleはコスト競争を完全には放棄しない。インドでの製造を通じて、コストリーダーシップを保ちつつ、日本との技術協業も続ける。この二重戦略を管理することは極めて難しい。Ternusはエンジニアとして、その複雑さに向き合うことになる。
Jobs時代、Cook時代、Ternus時代という系譜。Apple創業者のSteve Jobsは、製品のビジョンを示す人物だった。次のティムCookは、そのビジョンを世界中に製造・配送する人物だった。Ternusは、その両者の遺産を継ぎながら、次の時代のビジョンを形づくる人物になるだろう。デバイス上のAI、プライバシー、エコロジー。これらすべてが、ハードウェアエンジニアの視点から再定義される可能性がある。
Appleがこの人事によって表明していることは、一言では言い難い。Cookの供給網最適化戦略は、Appleを「レジリエンス(回復力)」と「コスト効率」の両立という歴史的な課題に直面させた。そしてその課題を、次の時代にはエンジニアリングの視点から解き直そうとしている。製品責任者がCEOになることは、「製造がビジネスの中心に戻る」ことを意味するのか、それとも単に「次世代製品の開発を急ぐための人事」に過ぎないのか。その答えは、次の数年で明らかになるだろう。
日本のサプライヤーにとって問われることは、自社の「代替不可能性」をいかに保ち続けるか、という古くて新しい問題だ。Cookの時代、彼らは「世界最高水準の部品を供給する」という一点で存在意義を保ってきた。Ternusの時代、その基準は変わるだろうか。エンジニアとしてのTernusが、日本企業のエンジニアたちをいかに見つめるのか。その視線が、次の5年、10年のAppleの供給網の形を決めていくことになる。9月1日のCEO交代が、単なる人事異動で終わるのか、それとも戦略的な転換の始まりなのか。その答えは、当分のあいだ、見えてこないのだろう。
だが一つ確かなことがある。村田製作所の開発室で、ソニーの映像センサー部門で、TDKのエンジニアリングセンターで、名もなき技術者たちが今日も部品を設計し、その精度を高めるための試行錯誤を続けているということだ。彼らの努力の積み重ねがなければ、どの人事も、どの戦略も成り立つことはない。Ternusがエンジニアだからこそ、彼がそのことに気づいている可能性がある。その気づきが、次のAppleの姿を決めるのではないか。次に何が見えてくるまで、待つしかない。
この記事を書いた人
灰島
30代の日本人。国際情勢・地政学・経済を日常的に読み続けている。歴史の文脈から現代を読むアプローチで、世界のニュースを考察している。専門家ではないが、誠実に、感情も交えながら書く。


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