2017年、イタリアは世界に約束した。国家エネルギー戦略のなかで、石炭火力発電を2025年までに全廃すると宣言した。2024年にはG7議長国として気候・エネルギー・環境相会合を主催し、G7全体で2035年までの石炭火力段階的廃止を合意に導いた。気候変動対策のリーダーを自認していた国が、その約束を破った。2026年3月27日、イタリア議会下院は石炭火力発電所の稼働期限を2038年まで延長する法案を可決した。13年の延長。廃止ではなく、延命。約束ではなく、撤回。これは単なるスケジュール変更ではない。気候公約の信頼性そのものに関わる地殻変動だ。国際的な気候合意は、各国の自主的なコミットメントの積み重ねで成り立っている。一国が公約を撤回すれば、他の国もそれに倣う口実を得る。パリ協定の枠組み自体は法的拘束力が弱く、離脱のハードルは低い。イタリアの決定が持つ重みは、石炭何万トンという物理的な量ではなく、国際協調の心理的な基盤を揺るがすというその構造的な影響にある。気候交渉は、各国が「他の国も同じ方向に進んでいる」という信頼のもとに成り立つ協調ゲームだ。一人が離脱すれば、残りのプレイヤーの協調インセンティブも下がる。ゲーム理論が予測するとおりの展開が、現実の外交舞台で起きかねない状況が生まれている。(Carbon Pulse: Italy moves to delay coal power phaseout by 13 years)
延長の引き金は、ホルムズ海峡の向こう側にある。2026年2月末のイラン戦争勃発とホルムズ海峡の封鎖は、ヨーロッパのエネルギー市場を再び混乱に陥れた。イタリアは天然ガスの輸入依存度が極めて高く、国内エネルギー供給の約40%をガスに頼っている。そのガスの約12%はカタールからのLNGだが、ホルムズ海峡の封鎖でその供給が途絶した。欧州のガス価格は紛争勃発以来70%高騰し、イタリアの産業界と消費者は二重のコスト増に苦しんでいる。北部の製造業地帯では電力コストの急騰が中小企業の経営を圧迫し、南部ではガス暖房費の上昇が低所得世帯を直撃している。シチリア島やカラブリア州では、冬季の暖房費が前年比で50%以上上昇し、自治体が緊急の暖房費補助を実施する事態に追い込まれた。イタリアの電力料金はドイツに次いでEU内で最も高い水準にあり、さらなる上昇は社会的な忍耐の限界に近づいていた。ジョルジャ・メローニ首相率いる右派連立政権は、「エネルギー安全保障」を理由に石炭火力の延命を決断した。(Beyond Fossil Fuels: Italy delays coal phase-out to 2038)
この決定は、もともと消費者保護を目的とした「エネルギー法案」に紛れ込んだ。価格高騰から家計を守るための法案審議のなかで、石炭火力の延長条項が盛り込まれた。エネルギー危機という緊急性を盾に、長期的な気候政策の根幹を書き換える条項が、ほぼ議論なく通過した。上院での承認も見込まれており、法制化は時間の問題だ。環境政党ヨーロッパ・ヴェルデのアンジェロ・ボネッリ党首は、政府を「気候怠慢」と非難した。だが、エネルギー価格の高騰に苦しむ国民の前で、脱石炭の旗を振り続けることの政治的コストは、メローニ政権にとって負担しきれないものだったのだろう。(Muser Press: Italy delays coal phase-out by over a decade)
皮肉なのは、この延長が「実質的にはほぼ無意味」だという専門家の指摘だ。イタリアの気候シンクタンクECCOは、この決定を「象徴的には有害だが、実質的な影響は低い」と評価した。イタリアの電力価格は大半の時間帯で天然ガスの価格とEUの排出権取引市場(EU-ETS)のルールによって決まっており、石炭火力を延長しても電力価格は大きく変わらない。排出量への影響も限定的だ。つまり、エネルギー安全保障上の実益がほとんどない政策変更が、気候政策の信頼性に対してはきわめて大きなダメージを与えるという、��悪のコストパフォーマンスなのだ。さらにECCOは、石炭火力の延長が再生可能エネルギーへの投資を遅らせるシグナルとなり、長期的にはイタリアのエネルギーコストを逆に押し上げるリスクを指摘している。「非効率で高コスト」という評価は、環境団体からではなく、エネルギー経済の専門家から出ている点が重要だ。(ECCO: Extending coal phase-out risks being ineffective and costly)
問題の核心は、イタリア一国の話にとどまらないことにある。ドイツ、韓国、フィリピン、日本も、中東戦争に起因するエネルギー不安を理由に、石炭火力の延命や再稼働を検討するシグナルを発している。化石燃料への依存が引き起こしたエネルギー危機に対して、さらに化石燃料に頼るという構図。ヨーロッパの複数のシンクタンクが指摘するように、これは「脆弱性を生んだ原因そのものに解決を求める」というパラドックスだ。イタリアの決定が前例となれば、他の国々が気候公約を後退させる口実になりかねない。ドミノの最初の一枚が倒れた可能性がある。(Euronews: Italy clings to coal as EU countries shield with renewables)
ユーロニュースの報道は、興味深いコントラストを描いている。イタリアが石炭にしがみつく一方で、他のEU加盟国の一部は中東戦争をむしろ再生可能エネルギーへの移行を加速させる契機と捉えている。スペインは太陽光発電の容量を緊急に拡大する計画を発表し、デンマークは洋上風力の入札プロセスを前倒しした。同じ危機に直面しながら、正反対の政策選択をする国々。この分岐は、エネルギー転換が技術的な問題であると同時に、政治的意志と制度的な能力の問題であることを示している。イタリアの選択は、短期的な政治的安全と長期的な気候安全のあいだのトレードオフで、前者を優先した結果だ。だがスペインやデンマークの選択が示すように、同じ危機を「脱炭素の加速の理由」として捉えることも可能だ。化石燃料依存がリスクを生んだなら、脱依存こそがリスクの低減策だという論理は、経済合理性の観点からも成り立つ。(Climate Change News: Italy pushes coal exit back after gas prices rise)
EU全体の気候政策フレームワークも、2026年に転換点を迎えている。欧州委員会は2030年以降の気候ルールの策定を進めており、排出権取引制度の見直しや次期長期予算の交渉が並行して行われている。このタイミングでイタリアが石炭廃止を13年延長したことは、EU内部の気候政策に対する結束を弱める効果を持つ。イタリアはEU第3位の経済大国であり、その政策転換は小国のそれとは比較にならない影響力を持つ。2024年にG7議長として脱石炭の旗を振った同じ国が、わずか2年後に石炭の延命に舵を切る。国際的な気候ガバナンスにおける信頼の毀損は、数値では計りにくいが、外交の現場では確実に重くのしかかる。COP31に向けた交渉のなかで、途上国がイタリアの事例を引き合いに出して自国の石炭延長を正当化する場面は容易に想像できる。「先進国ですら約束を守れないのに、なぜ途上国だけが犠牲を払わなければならないのか」。その問いに対する有効な反論を、G7はまだ持ち合わせていない。
日本から見たこの問題は、他人事ではない。日本もまたG7の一員として2035年までの石炭火力廃止にコミットしている。しかし、ホルムズ海峡の封鎖によるエネルギー危機は日本にも直撃しており、エネルギー安全保障を理由とした石炭火力の延命圧力は日本国内でも強まっている。日本の石炭火力は発電量の約3割を占めており、イタリアの数パーセントとは比較にならない規模だ。もしイタリアの前例に倣って日本が石炭廃止の目標を後退させれば、G7の気候コミットメント全体が空洞化するリスクがある。日本のエネルギーミックスにおける石炭の比重はイタリアとは比較にならないほど大きく、もし日本が後退すれば、その影響はイタリアの何倍にもなる。日本が脱石炭の旗を降ろすことは、アジア全体の気候政策にも波及効果を持つ。中国やインドが石炭拡大の口実とする可能性すらある。外務省の渡航警報が示すように、中東情勢は日本のエネルギー政策に直結している。安全保障と気候変動は、もはや別々の政策テーブルで議論できるものではなくなった。
イタリアの石炭発電所は現在7基が稼働している。サルデーニャ島のポルトスクーゾ発電所やプーリア州のブリンディシ発電所を含むこれらの施設は、いずれも老朽化が進んでおり、仮に2038年まで延長されたとしても、設備の物理的な寿命が先に来る可能性すらある。つまりこの延長は、実際に13年間石炭を燃やし続けるための措置というよりも、「脱石炭を急がない」という政治的メッセージとしての側面が強い。そのメッセージが国際社会にどう受け取られるかは、イタリア政府の計算を超えた領域だ。サルデーニャ島のポルトスクーゾ発電所は1960年代に建設され、すでに設計寿命を大幅に超えている。プーリア州のブリンディシ発電所も同様で、維持管理コストは年々増大している。2038年までの延長が意味するのは、これらの老朽施設にさらなる投資を行って延命させるか、それとも延長権だけを持ちながら実態としては閉鎖に向かうかという選択肢の間に、13年間の政策的曖昧さを作り出すことだ。この曖昧さ自体が、再エネ投資家にとってはリスクシグナルとなる。エネルギー転換に必要な民間投資を呼び込むには、政策の予見可能性が不可欠だ。13年延長という決定は、イタリアのエネルギー政策の方向性に対する市場の信頼を損ない、結果として脱炭素に必要な投資を遅らせる逆効果を生みかねない。
化石燃料への回帰と再生可能エネルギーへの加速。2026年のヨーロッパは、この二つの相反するベクトルが同時に走っている。どちらが最終的に勝つかは、政治と市場と技術の三つの力学の交差点で決まる。再エネのコストは過去10年で劇的に低下し、太陽光発電はすでに多くの地域で石炭より安い。しかし、安さだけでは政治的決定は動かない。送電網の整備、蓄電技術の普及、既存産業からの雇用移行、そして何より「今すぐ安定した電力を確保したい」という切迫した要求に応えられるかどうかが、実際の政策選択を左右する。エネルギー転換は「正しいか間違っているか」ではなく、「今やるか後でやるか」の問題として政治家の前に現れる。そして「後でやる」を選び続けた結果が、13年の延長というかたちで現れた。イタリアの13年延長は、その交差点でひとつの方向に大きく振れた出来事だ。だが、この一手が気候公約のドミノ倒しの最初の一枚になるのか、それとも「これ以上は倒さない」という反発の契機になるのかは、これからの数カ月が教えてくれる。ただ確実なのは、一度倒れたドミノを元に戻すのは、倒すよりもはるかに難しいということだ。気候変動は待ってくれない。石炭を13年延命しても、大気中のCO2濃度は1ppmも下がらない。その代償を払うのは、2038年の世界に生きる人々だ。IPCCの第6次評価報告書が警告するように、1.5度目標の達成には2030年までに世界の温室効果ガス排出量を2019年比で43%削減する必要がある。その期限まで4年を切ったこのタイミングで、G7の一員が石炭の延命を選ぶ。その事実が持つ象徴的な重さは、たとえ実際の排出増が限定的であっても、国際気候交渉のダイナミクスを変えるに十分だ。パリ協定の約束は紙に書かれた文字にすぎない。その文字に命を吹き込むのは各国の行動であり、行動が後退するとき、約束は静かに死んでいく。批准書に署名したインクが乾く前に。そして、倒れたドミノの先に待っているのは、取り返しのつかない気候変動の加速だ。イタリアの石炭延長は、その静かな死の最新の一幕なのかもしれない。
この記事を書いた人
灰島
30代の日本人。国際情勢・地政学・経済を日常的に読み続けている。歴史の文脈から現代を読むアプローチで、世界のニュースを考察している。専門家ではないが、誠実に、感情も交えながら書く。

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