2026年4月1日午後12時34分(米東部夏時間)、フロリダ州ケネディ宇宙センターの39Bパッドから、白煙と轟音を巻き上げてスペース・ローンチ・システム(SLS)ブロック1ロケットが夜空を切り裂いた。先端に収まるオリオン宇宙船には4人の飛行士——リード・ワイズマン、ビクター・グローバー、クリスティナ・コック、ジェレミー・ハンセン——が搭乗している。目的地は月。アポロ17号が月面を後にした1972年12月以来、実に52年3か月ぶりとなる有人月周回ミッションが、ついに幕を開けた。
乗組員が刻む「初」の歴史
アルテミスIIの4人のクルーは、それぞれが歴史的な「初」を体現する。ビクター・グローバーは月軌道を飛行する初のアフリカ系アメリカ人となった。クリスティナ・コックはアポロ計画を含む月周回全史において初めての女性宇宙飛行士として名を刻む。カナダ宇宙庁(CSA)のジェレミー・ハンセンは、米国以外の国籍を持つ飛行士として史上初めて月周回軌道に到達する。コマンダーのリード・ワイズマンはISS長期滞在経験を持つベテランで、ミッション全体の指揮を執る。
NASAが掲げる「アルテミス世代」のビジョンは、アポロ時代の白人男性中心主義からの脱却を象徴している。アポロ計画17回のミッション延べ33名の飛行士は全員が白人男性であり、NASAがこの記録を2026年に覆すことは、単なる多様性のシンボルではなく、探査活動の裾野を人類全体に広げる戦略的意図を持つ。
10日間の飛行プロファイル
アルテミスIIのミッションは打ち上げから帰還まで約10日間を想定している。4月1日に打ち上げ後、地球周回軌道上でのシステムチェックを経て、トランスルナー・インジェクション(TLI)バーンを実施。月に向かって加速し、月面から最近点約8,900km、最遠点約370,000kmを飛行するハイブリッド自由帰還軌道を取る。この軌道は、エンジン異常が発生した場合でも地球に自然帰還できる「自由帰還軌道」であり、乗員の安全を最大化する設計だ。
帰還予定は4月10日。オリオン宇宙船はパラシュート降下後、太平洋上のカリフォルニア沖に着水する予定で、USS サン・ディエゴを中心とする回収艦隊が待機している。ミッション全体の飛行距離は推定約690,000km、地球から月往復の実飛行距離に相当する。
SLSとオリオンの技術データ
SLSブロック1の全高は98.1m、打ち上げ時総重量約2,608トン。コアステージにはRS-25エンジン4基(アポロ時代の宇宙シャトル主エンジンの後継型)が搭載され、合計推力約880万ニュートンを発生する。固体ロケットブースター2基(各推力約1,590万ニュートン)との合計推力は約3,950万ニュートンに達し、これは現役ロケット中で史上最大の推力を持つスペースXのスターシップ(約6,900万ニュートン)に次ぐ水準だ。
オリオン宇宙船の乗員モジュールは直径5m、与圧容積約8.95立方メートル。最大4名が約21日間滞在可能な設計だが、アルテミスIIは10日間に設定されている。欧州宇宙機関(ESA)が提供するサービスモジュールは太陽電池パドルで電力を供給し、電気推進エンジンで軌道制御を担う。アルテミスII用のオリオンはアルテミスI(無人試験飛行、2022年11月)を受けて耐熱シールドの素材変更と修正が施されている。
打ち上げコストと予算の現実
アルテミス計画の総コストは、NASA独立評価局(IGA)の試算で2025年時点で累計約930億ドル(2012〜2025年)。うちSLS開発費は約230億ドル、オリオン宇宙船は約220億ドル。1回の打ち上げコストは約41億ドル(2024年試算)と推計される。比較として、スペースXのファルコン・ヘビーの商業打ち上げ価格は1億5,000万〜2億ドル程度であり、コスト効率の観点からはSLSへの批判は根強い。
しかしNASAは、ゲートウェイ月宇宙ステーション建設と月面着陸を見据えた「完全な月輸送システム」としてのSLSの必要性を主張してきた。問題は、トランプ政権下の2025〜2026年予算審議でNASAの有人宇宙探査予算が約17%削減されたことだ。アルテミスIIIの有人月面着陸計画(スペースXのスターシップ着陸機使用)は当初2025年予定→2026年→2027年以降と繰り返し延期されており、その実現時期は依然として不透明だ。
トランプ政権と宇宙政策——「月より火星」の論理
現在のトランプ政権(第2期)の宇宙政策は、バイデン前政権から大きく舵を切った。トランプ大統領は就任直後の2025年1月、NASA長官にイーロン・マスクの側近と目されたジャレッド・アイザックマン(SpaceX宇宙飛行士経験者)を指名。国家宇宙戦略では「月はステップストーン、最終目標は火星」というビジョンが前面に打ち出された。
この政策転換は、アルテミス計画の予算確保を複雑にしている。スペースXのスターシップが月着陸機に採用されているため、マスク氏のビジネス利益と政府政策の利益相反を懸念する声も議会に存在する。一方で、スターシップの開発費用は民間負担であり、NASAが純粋に支出するコストを圧縮できるとも評価される。
具体的数字を見ると、SpaceXのHLS(ヒューマン・ランディング・システム)契約はNASAとの総額約40億ドル(2021〜2030年)。これに対しNASAが2011年から投じてきたSLS累計開発費230億ドルの「使い捨てロケット」としての費用対効果は、議会調査局(CRS)も繰り返し問題視してきた。
中国との月競争——2030年前後の着陸レース
アルテミスII打ち上げと同じ4月1日、中国国家航天局(CNSA)は「嫦娥7号」探査機の2027年打ち上げ計画を再確認する声明を発表した。中国は2030年までに有人月面着陸を目標に掲げ、「月南極基地」建設の初期段階として月南極域への探査機投入を進めている。
中国の月計画の主要マイルストーンは以下の通りだ。嫦娥5号(2020年)が月のサンプルリターンに成功、嫦娥6号(2024年)が月裏面からのサンプル採取に世界初成功、嫦娥7号(2027年予定)が月南極での揮発性物質探索、嫦娥8号(2028年予定)が月基地建設のための現地資源利用実験、そして長征10号有人ロケットを使った有人月面着陸(2029〜2030年目標)と続く。
ロシアと中国は2021年に「国際月研究ステーション(ILRS)」計画に合意し、UAE、パキスタン、ベラルーシ、タイ、ベネズエラなどが参加を表明している。これに対してNASAは「アルテミス合意」を推進し、2026年4月時点で43カ国が署名。月資源の公平な利用と非軍事化の原則を定めているが、中国・ロシアは署名していない。
月の戦略的価値は氷水(水資源)と希土類元素にある。特に月南極のクレーターには推定最大6億トンの水氷が存在するとNASAの科学者は推定しており、これを酸素と水素に分解すれば月内・深宇宙ミッションの燃料になる。この「月のガソリンスタンド」を先に確保した側が宇宙探査の主導権を握る——これが米中月競争の本質的な経済合理性だ。
民間宇宙企業の台頭——新しいアーキテクチャ
アルテミス計画はNASAが主役を務めつつも、民間企業が従来とは比較にならないほど大きな役割を担う。スターシップ(SpaceX)以外にも、月面輸送サービスを担うCLPS(商業月輸送サービス)プログラムには2026年時点でアストロボティック、インテュイティブ・マシーンズ、ファイアフライ・エアロスペースなど複数社が参加。2024年2月にはインテュイティブ・マシーンズのIM-1が民間初の月面軟着陸(傾いた状態)に成功、科学観測データを送信した。
民間参入によるコスト削減効果は顕著だ。CLPSの月面輸送コストはNASAが直接開発した場合の推定1/10〜1/5。月面ビジネスの商業化(資源採掘、観光、通信インフラ)が視野に入ってきた2020年代後半において、宇宙探査は「国家的威信」から「経済圏の拡張」へと意味を変えつつある。
52年の空白が示す意味
1972年12月14日、アポロ17号の宇宙飛行士ジーン・サーナンが月面に足跡を残した最後の人間となってから53年余りが経過した。その間、人類は月を向いていなかったのではなく、地球低軌道(LEO)の活用——スペースシャトル、ISS——に重点を移した。しかし今、気候変動・資源制約・地政学的競争という3つの構造的課題が重なる時代に、月への回帰は単純なリターンではなく、人類の活動域を地球圏の外へ拡張する「第二の経済圏」構築の第一歩として位置づけられている。
アルテミスIIのクルーが月を周回し、地球に帰還する4月10日。その映像は全世界に向けてライブ配信される。半世紀前のアポロ計画が冷戦下の地政学的産物であったとすれば、アルテミスは気候・資源・地政学が複合する21世紀の危機に対する、人類の別の答えかもしれない。宇宙から見た蒼い地球が再び人々に語りかける——その意味はいまだ、決して色褪せていない。


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