英国政府が補償と給付の両立を認めた。こういうニュースがあった。アイルランドの「母と赤ちゃんの家」と呼ばれる施設の生存者が、英国で補償金を受け取っても福祉給付が削られないよう保護される見通しになったという話だ。詳しくはこのガーディアンの記事に載っているが、キア・スターマー首相が活動家たちの圧力に応じ、「フィロメナ法」と呼ばれる法案を支持する方針を示した。この法律が成立すれば、生存者が補償金を受け取っても英国の福祉給付が減額されないよう保護される仕組みが整う。これは小さいようで、当事者にとっては生活を左右する決定的な話だ。
「母と赤ちゃんの家」とは何だったのか。少し背景を説明しておく。「母と赤ちゃんの家」とは、20世紀を通じてアイルランドでカトリック教会と国家が運営していた施設で、婚外子を産んだ女性やその子どもたちが収容された場所だ。名前だけ聞くと福祉施設のように聞こえるが、実態はまるで違った。そこに送られた女性たちは強制労働をさせられ、子どもたちは劣悪な環境に置かれ、多くが亡くなっている。2021年のアイルランド政府調査では、こうした施設で9000人以上の子どもが死亡していたことが確認された。生き残った人々もトラウマを抱え、家族と引き離された記憶を一生背負って生きてきた。アイルランド政府は補償制度を設けたが、その補償金を受け取ると英国の福祉給付が「収入」とみなされて削られるという問題が浮上していた。つまり、正義のための補償が逆に生活を苦しめるという、理不尽極まりない状況が生まれていたのだ。
歴史的な罪を今も背負い続ける人々。なぜこんな問題が2026年になっても解決されていなかったのかというと、制度の縦割りがすべての元凶だ。アイルランド政府が補償を決めても、英国の社会保障制度はその補償金を「資産」と判断して給付を減らすというルールが自動的に適用されてしまう。生存者の多くはアイルランドから英国に渡って生活しており、年金や住宅補助といった給付に頼って暮らしている高齢者も多い。補償を受け取れば生活が安定するどころか、かえって手取りが減るという罠にはまる。これは正直きつい。不正義を認めて補償を出したところで、行政の制度設計のせいで当事者の生活が悪化するなんて、洒落にならない話だ。
スターマー政権が動いたことの意味。そこに今回のスターマー首相の決断がある。英国という国は、制度的な硬直性が強い一方で、市民社会からの圧力に対して政治が動く場面がちゃんとある。フィロメナ・リーという女性の実体験を映画化した「あの日、欲望の名のもとに」(2013年)は世界的に注目を集め、アイルランドの「母と赤ちゃんの家」問題を国際社会に広めた功績が大きい。「フィロメナ法」という名前はまさにそこから来ており、個人の証言が制度を動かした一例だと思う。これはアイルランドと英国、両国が自分たちの負の歴史に向き合おうとしている姿勢としても評価できる。過去の罪を認め、制度を直そうとする動き、これは素直に嬉しい。
SNSでも反響が広がっている。X(旧Twitter)で「Survivors Ireland mother」と検索すると、英語圏を中心に当事者や支援者からの声がいくつも見つかる。「ようやく声が届いた」という安堵の投稿もあれば、「法律が成立するまでは油断できない」という慎重な意見も多い。長年活動してきたキャンペーン団体が今回の動きを歓迎しつつも、「法案が議会を通過するまで勝利とは言えない」と釘を刺している声も見られる。そのリアルな緊張感は、これが単なる政治パフォーマンスではなく、人々の生存に直結する問題だということを改めて示している。
日本への影響と、対岸の話では済まない理由。直接的な経済的影響という点では、このニュースが日本の株価や貿易に響く話ではない。ただ、補償金と社会保障制度の整合性をどう取るか、という問題は日本にも無関係ではない。日本でも戦時中の強制労働被害者への補償議論や、過去の国家的不正義に対する賠償問題が継続している。補償を受けた側が福祉制度上で不利になるという構造は、制度設計次第で日本でも起こりうる話だ。また日本には「おかえりなさい」と言える仕組みを丁寧に積み上げてきた側面もある。被害者支援の制度が補償と連動して機能するかどうかは、社会の成熟度を測る一つの指標だと思っている。
ポジティブとネガティブ、両方のシナリオを考えておく。楽観的に見れば、フィロメナ法が成立すれば生存者たちは補償と給付を両立して安定した生活を送れるようになり、他国でも同様の制度改革の参考になるだろう。市民社会と政治が連動して歴史的不正義を是正した事例として、国際的にも注目されるはずだ。一方で悲観的なシナリオとしては、法案が議会審議の過程で骨抜きにされたり、財政上の理由から実施が遅延したりする可能性も否定できない。生存者の多くはすでに高齢であり、法律が整う前に亡くなってしまうケースも出てくるかもしれない。時間が制度の敵になるという現実は、どの国の歴史的補償問題にも共通する残酷さだ。
カギは「法案成立の速度」と「制度の実効性」だ。今後の展望として言えば、フィロメナ法が実際に英国議会を通過し、適用対象が明確に定義されるかどうかが最大の焦点になるだろう。首相が支持を表明したとはいえ、法案が成立するまでには時間がかかる。生存者団体が引き続き圧力をかけ続けること、メディアがこの問題を忘れないことが、法案を前進させる力になる。補償と生活保護が両立できる制度設計ができれば、英国とアイルランドは過去の傷に向き合った国として一歩前進したと言えるはずだ。こういうニュースが「その後どうなった」まで追いかけられる社会であってほしいと、強く思う。


コメント